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4.ゆるしとその結果

 

今まで、ゆるすことを妨げる、ゆるしについての色々な間違った考え方や確信について述べながら、真のゆるしとその結果について語ってきましたが、これからイエスの模範を見ながら、真のゆるしとその結果についてイエスの教えをまとめてみたいと思います。

イエス・キリストは、受難を受けたときだけではなく、人々に拒否され、あざ笑われたとき、不正に訴えられ、試され、命が狙われるとき、または、弟子がイエスのことばをなかなか理解できなかったときやイエスを裏切ったときにも、傷つけられて、苦しんだはずです。けれども、どんなに大きな傷を負わされても、これがイエスが実際に死んだほど大きな傷であっても、イエスはこの傷を負わせた人を必ずゆるすことができたのです。どうして、イエスは、どんなに大きなとげさえもゆるすことができたのでしょうか。

まず、「宝を天に積みなさい」とか「何よりも神の国を求めなさい」(マタ 6,19-21.33)と教えたイエス・キリストにとって最も大切な宝とは、父である神との愛の交わりであったということが分かります。そして、イエスは、人間を完全に満たすことのできる唯一のものである神の愛をよく知っておられたので、「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」(マタ 6,20)という確信、つまりこの世には人間から色々な大切なものを奪い取ることのできる力があっても、神の愛を奪い取ることや、神との愛の交わりを滅ぼすことのできる力が何一つないという確信をもっていました。同じような価値観と確信をもつようになった聖パウロは、このことについて次のように語っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)他の人々はイエスに対して敵意をもって、イエスを傷付けることや命さえ奪い取ることができても、イエスから最も大切な宝を奪い取ることができなかったので、イエスにとって本当に危険な人物ではありませんでした。ですから、イエスは彼らを恐れる必要も、敵として考える必要もなかったわけです。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(ルカ 12:49)と言われたイエスは、最も大切にしていた神の愛を自分だけで楽しむのではなく、それを他の人に現すことや伝えることこそ自分の使命であり、この世に生まれてきた目的であると意識していましたので、この使命を果たすことによって、すべての人々の心が神の愛の火で燃えるようになることを何よりも強く求めたのです。それから、イエスは、神があらゆる悪から善を引き出す力をもって(マタ 21:42、ヨハ12,32; ヨハ 8:28-29;ロマ 8:28)、悪の攻撃を受けた人との愛の交わりを深めるためにこの悪を用いることができることをも知っていました。ですから、イエスは、どんなに大きな悪事をされても、これが自分の人生や働きを滅ぼし、まったく無意味なものにする意味で絶対的なものではく、この悪さえも、何らかの善のために役に立たせることの出来るものであると信じたので、絶望に落ちることがありませんでしたし、この悪に支配されることもありませんでした。さらに、イエスは父である神を絶対的に信頼して、すべてを父である神にゆだねることができたがゆえに、負わされた傷はすぐに癒されましたし、イエスの愛、神に対する愛も、悪を行った人に対する愛も深まっていたのです。ですから、イエスは、悪そのものを憎んで、悪に対して怒りを抱いても、この悪を行った人を愛していたので、この人を諦めたり、罪に定めたりしたのではなく、この人にも回心する可能性、悪と罪の支配から解放されて、神のもとに戻り、愛に生きる可能性があると信じて、この人のために希望をもったのです。イエスのゆるしは、この人のための希望の表現であったとともに、神の愛を現す方法でもあったのです。こうして、イエスは、人々に受け入れられ、評価されていた時だけではなく、拒否され、苦しめられたときにも、ご自分の最も大切な宝であった神の愛を人々に伝えることができたので、人間が行った悪は、全然望ましくないものでありながらも、イエスの働きを滅ぼすことができなかっただけではなく、そんなつもりがなくても、イエスに神の無条件の愛をよりはっきりと現すチャンス、ご自分の使命をより立派に果たすチャンスを与えたわけです。

聖パウロをはじめ、多くのキリスト者の生き方を見れば分かることですが、どんな人にも、イエスと同じように自分に対して悪を行った人をゆるすことが可能なのです。そのために、私たちは、先ず、神の愛を何よりも大切な宝として認める必要があります。それから、私たちがどんなに苦しい体験をしても、どんなに大きな悪事をされても、神には、この苦しみや悪から善を引き出す力、私たちの傷を宝物に変える力があると信じて、自分の苦しい体験や心の傷を神のいつくしみ深い御手にゆだねる必要があります。但し、自分の苦しみを神にゆだねるとは、自分が何もしないで、すべて神に任せるということではなく、不正な行動(例えば復讐や罰など)によって、自分の精神的な安定を取り戻すための努力を諦めて、正しい方法によって心の傷を手当(治療)するということです。

もし、私たちは、このようなことができるならば、先ず益々大きな苦しみをもたらす悪循環を破り、加害者との不健全な関係や苦しい記憶の悪い影響から自由になります。それから、私たちの傷は、どんなに大きくても、神は、これを必ず癒してくださいます。癒しの過程が進めば進むほど、私たちの苦しみからどんなに大きな善が生じたかを見ることができますので、他人や自分に対する怒りが和らぎ、私たちの心は段々と大きな感謝と喜び、または、愛と平和に満たされるのです。加害者のために回心する可能性を見出し、この人のために善を求めるようになれば、ゆるすことは何の無理もない、自然なことになるのです。その時、私たちが完全に癒されたということが分かるのです。苦しい体験を受け入れる、つまりそれを善をもたらしているものとして、また自分の成長を促している自分の人生の大事な一部として認めることによって、今までゆるさなかったがゆえに、死んでいた自分の体や精神や霊の一部が生きるようになり、その部分をとおして命が流れるようになりますので、不思議に新たな苦しみと他の悪とともに死をもたらしていた傷は、癒された人をはじめ、他の人を生かすものになるのです。

苦しい記憶や心の傷が完全に癒されるために、神の愛を何よりも大切なものと認め、神の愛とその力を信頼して、すべてを神にゆだねる必要があると聞いて、自分に無理だと考える人がいるかもしれません。けれども、元々できなかったことができるようになるために、癒しの過程がありますので、例え元々自分にとって神の愛が最も大切なものでなくても、自分の苦しみを神にゆだねることができなくても、心の傷の癒しが進めば進むほど、それが変わっていきます。この意味で、全然望ましくない悪によって負わされた心の傷は、神の愛の素晴らしさとその力を知るチャンス、さらに神を信頼するようになって、神との正しい関係に入るチャンスにもなれるわけです。次回から、この癒しの過程について、また癒しを促すために私たちにできることについて語りたいと思いますので、諦めずにお付き合いください。

  

ようこそ!

ここで、少しでもイエス・キリストの光を見出し、

この光によって照らされるならば、幸いです。

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