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ボグスワフ・ノヴァク 神言会司祭

 

幼児洗礼のわたしは、幼い時から、教会に毎週行きましたが、17才になっても、クリスマスと復活祭を区別することがほとんどできませんでした。クリスマスはクリスマスツリーを飾ったり、クリスマスイブに特別な食事をしたりするときで、復活祭は、卵を祝別してもらうときであるということしか分りませんでした。

17才で高校の卒業を目の前にして、教会学校で「岩と砂の上に家を建てる」というイエスのたとえ を聞いて、恐らく初めて聖書の言葉の影響を受けて、これからの人生をどうすれば良いかと真剣に考えるようになりました。そのとき、とても重要なことに気が 付きました。それは、毎週教会に行ったりしても、自分がカトリックであるということは、日常生活とあんまり関係がなかったし、将来について考えても、信仰 と関係なく考えているということでした。それに気がついたら、自分が実際に信じていないのではないか、教会に行ったりしても、それはあんまり意味のない習 慣を守ることであって、ただ自分と周りの人を騙しているだけではないかといろいろ考えていました。そして、どんなことがあっても、自分に対して正直に生き なければならないと思って、教会に行くのをやめることにしました。けれども、そのとき、別の考えが頭に浮かびました。それは、自分がまだ実際に信仰生活を したことがないので、何を捨てるかを知りませんし、もしかして知らずに宝を捨てるかもしれないという考えでした。結果的に、信仰を捨てようと思ったらいつ でも捨てることができるものであるから急ぐ必要がありませんし、捨てる前に何を捨てるかを調べた方が賢いのではないかと思って、信仰生活をしてみることに しました。

その時初めて聖書を手にして読んでみました。それから、「光と命」というカトリックの若者の運動に入りました。(ちなみに、その時「若い無神論者の会」にも入会しましたが、数ヶ月後この会が潰れました)。

聖書を読んだり、祈りをしてみたり、「光と命」の集会にほとんど毎週参加したりして、信仰に生きている多くの人と出会いました。けれども、半年がたって、 信仰について理解を深めても、心の状態があんまり変わりませんでした。続けていても何もならないなら、やめた方がいいのではないかと何回も思いました。

「光と命」の運動の一つの行事として、毎年二週間のサマーキャンプが行われます。あんまり期待しませんでしたが、「光と命」をやめる前にこのキャンプに参加することにしました。キャンプのとき30人ぐらいの中高生と共に、食事をしたり、遊んだり、遠足に行ったりして、また祈ったり、ミサに預かったり、講話を聞いて、聖書を読んで話し合いをしたりしてとても楽しい時間を過ごしました。前はいろいろなキャンプに十数回参加したことがありましたが、これほど喜びに満ちたキャンプに参加したのは初めてでした。それは、信仰共同体のすばらしさの体験でした。

この体験は、わたしにとって非常に重要なものになりましたが、これよりも大事なこと、わたしの人生を全く変えたことが起りました。それは祈った時の体験でした。

毎日夕食を終わったら皆が、聖堂に集まって夕の祈りをしました。夕の祈りの後、寝るまでは、自由時間がありましたので、皆は祈りが終わるとすぐ聖堂を出て、リ ラックスのタイムを楽しみました。わたしも、毎晩同じようにしましたが、この夜はしばらく聖堂に残って一人で祈りをしてみようという考えが頭に浮かびまし た。遊びに行きたかったのですが、この考えを無視することが出来なかったために,聖堂に残りました。ちょっとだけ祈る予定でしたが、暗くなって、戸締りを するシスターに聖堂から「追い出される」まで祈りつづけました。ポーランドでは、8月は、午後10時30分まで明るいので、4時間以上この祈り続けたわけです。でも、時間の感覚をまったく失いましたので、そんなに長く祈ったことにその後気が付きました。

この4時間の間何かの劇的な幻を見たわけではありませんが、イエスが自分の前にいると非常に強く実感しました。肉眼で見たわけでなければ、肉声を聞いたわけではありませんが、その4時間,感覚よりもずっと深いレベルでイエスと 対話をしていました。イエスは、「目の前に」実際にいらっしゃると実感しただけではなく、イエスはわたしを愛し、わたしの愛を求めているということ、また 自分に従ってほしい、手伝ってほしいということを言葉で言われるよりも、はっきりと分りました。心臓が破れそうになったほど大きな驚きと喜び、深い平安で 満たされたこのイエスとの出会いがいつまでも続けることを望んでいました。

次の日、この体験について考えたとき、大事なことに気がつきました。それは、今まで、自分にとってイエスは2000年 前の歴史的な人物とか、遠い天国におられる神であったということでした。そのために、祈りをしても、それは、わたしを愛してくださる父である神と交わる時 間ではなく、ただすごく遠いところ(天国でしょうか)におられる(悪いことをしたらすぐに罰を与えるので恐い)神様に一方的に話すことにすぎませんでし た。そんな祈りはわたしにとって恵みではなく、義務で、しかも非常につまらなくて、わけのわからない義務でした。キリスト者としての生活も、イエスと共に 生きるということではなく、色々な厳しい掟や難しい教えを守るように努力しなければならないということでした。そのために,自分にとって信仰は命の源では なく、邪魔する大きな重荷だったわけです。それを捨てたいという気持ちになっても不思議ではありませんでした。

この体験によって、祈りだけではなく、ミサに預かること、聖書を読むこと、生きていることの意味が全く変わりました。その出会いによって生まれたイエスと の友情は、わたしにとって一番大切なものになりました。イエスに従うこと、イエスのすばらしさを宣べ伝えることは、自分の人生の意義となり、その糧とな りました。

次の日、イエスに向かってそんな愚かな質問をしました。「あなたに従って行けば何の報いをもらうのでしょうか?」イエスは答えてこんな言葉を下さいまし た。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そ のかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおい て、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」エフェ 2:19-22

そのときこの言葉の意味が全然分かりませんでしたが、イエスに従うことを約束しました。

  

ようこそ!

ここで、少しでもイエス・キリストの光を見出し、

この光によって照らされるならば、幸いです。

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